教育と経営:教会の礼拝で思ったこと
息子の幼稚園はキリスト教(バプテスト教会)系だ。
僕ら夫婦や息子の性格を考えて、お受験系の幼稚園を避けた結果の選択でもあったが、僕自身の幼児教育がやはりキリスト教系だったこともあって、良い選択だと思っている。
僕はノンクリスチャンだし、むしろ無宗教なのだが、宗教の魅力は十分理解しているつもりだ。宗教とは「よく生きるために」という知恵のかたまりみたいなもので、人間の生きる根幹として大切な哲学を含んでいる。
正直、キリスト教のような一神教には少し馴染めないところもあるのだが、教義のもとに生きている人たちをうらやましく思うこともあるし、考え方や態度に触れることは大変参考になるものだ。
さて、その幼稚園では月に一度、合同礼拝といって園児とその父兄を集めての礼拝がある。
ノンクリスチャンの我々も交えて、お祈りをし賛美歌を歌い、宣教を受ける。
以前に数度、何かの機会に礼拝に参加したことがあって、その時間と空間をとても好きだと思えたものだ。自身の幼稚期の記憶が作用しているのだろうか。
普通、結婚式以外ではこんな機会も滅多にないと思われるが、これから3年間毎月礼拝の時間がある。実は、密かに楽しみにしていたのだ。
先に触れたとおり、自分にとって神=イエスではないので、若干の違和感はあるものの、思っていたとおり非常に良い時間が過ごせた。
今回の宣教では、僕らのように新入園児の父兄向けに、幼児教育の大切さと、その土台としてのキリスト教の(教義の)大切さという話だったが、キリスト教を一つの哲学だと考えれば非常に合点のいくものであった。
また、教育者についての話として、ひとを導く事の大変さと責任について説かれていたことも印象的だった。
僕は教育者ではないが、経営者として社員を導く責任がある。経営者が社員を導くとしたら・・・その土台にあるのは、経営者の哲学だ。
戦術レベル、あるいは(あまりよろしくないが)戦略レベルでの失敗はある程度許されるのが経営であるが、経営の根幹である「哲学」が間違っていたら、責任は重大である。
経営者は、時間や空間は限定的であるにしろ、社員の人生を預かる立場でもあるからだ。
宣教の話題に戻そう。宗教を土台にした場合、教育の哲学は教義にゆだねられる。教育者の哲学は、この土台の上に立ったものだ。
これは、個々の教育者の内にあるブレを修正する作用もあろうが、全体として一つの教義の上に立っていることなので、こういう言い方はなんだが非常に合理的なように考えられる。
いや、キリスト教の場合、そうした点がはっきりと合理的なんだと思う。
教育も仕事も、基本的にはある1点を目指しているというイメージ。そして、そのイメージを全体が共有している。これってすごいことだと思う。
よく、「宗教っぽい会社」みたいな話があるが、イメージ共有をうまく進めている会社なのかなって思う。イメージの向かう先が何なのか、気になるところだけど。
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そんな風に、自分自身を振り返ってみたり、様々な事象を分析してみたりして、その時間を楽しんでいる。
